(一) |
肥後国誌又合志川芥に、「昔嵯峨天皇の御宇に、肥後国川上に玉かづらといふ美人あり」
豊後(一説には阿蘇)の国より忍びの者を以て盗み出し、此処まで逃げ来りしに玉かづら心中に淀姫を祈り、「我を捨て給はずば再び故郷に帰へし玉へ」と祈りしに、忽ちいづこともなく百騎ばかりの武者現れ、忍びの者と共に戦ひ奪ひ返して帰る。
ここに玉かづらの親類等肥前より追ひ来れば、此の由を物語るに右の武者ども忽ちに行方知れずなりにける。
故に淀姫の御助とてここに淀姫宮を建立す。
又武者の消えたる所を今に百騎帰りといふ(百騎帰りは河辺村の内竹迫境にありと)。
(純巨日、以上もとより俗説であるが、大永三年は菊池二十四代武包が箇井城に拠って阿蘇惟豊の軍と戦ひ、破れて肥前高木に走った時である。
菊池氏は従来より肥前・筑後・筑前とは甚だ縁故が深い。社家の伝ゆる如く菊池氏衰運の時に臨んで、縁故深い肥前一宮の川上社を勧請し、氏の繁栄を祈ったものと見るべきであろう。官制明細帳にも菊池氏勧請とある。)
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(二) |
祭神にも就ても異説があるが、神祠正鑑には
一、八幡若宮(仁徳天草)
二、香椎宮(神功皇后)
三、竃門宮(玉依姫命)
四、乙宮(神名不詳)
五、淀姫社(肥前一宮豊比咩命、竃門宮玉依姫命同神)
六、住吉宮(三社)
七、志加社(海童神三座)
八、童子山王(神名不詳)
を載せてゐる。
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(三) |
宝歴六年の祠官宇野河内の記に「(前畧)佐々木氏合志郡主時分も神領寄附有之候趣相見え申候。
其後天正年中薩摩勢と合戦の時神殿焼失、神領も此時失ひ候趣申出候」。と記されてゐる。
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(四) |
拝殿両側に摂社二社がある。東の摂社の祭神は、官制明細帳には仁徳天皇、神功皇后、海津見神。
奥津彦神とあるが、前述(二)の祭神中、淀姫社、童子山王を除いた八幡、若宮、香椎宮、竃門宮、乙宮、住吉社、志賀社であろう。
神像七体があり、その一つの背に「亨保六年辛丑正月廿六日奉彩色。御末社七社。平川村」とある。
西は諸神社といひ、祭神を官制明細帳では天児屋神。加茂別雷神。豊玉姫。健磐竜命。倉稲魂神といふ。童子山王であろう。即ち淀姫神を本殿に東の摂社に若宮八幡以下七神を西の摂社に山王童子を祀ったものと推祭される。
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(五) |
昭和十六年社殿改築(記念碑あり)
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(六) |
昭和廿六年拝殿屋根を瓦に改葦。
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(七) |
境内の石手水鉢は「安政二年十二月奉納」。狛犬一対、石灯一対は「大正六年十一月建立」。
石鳥居は「昭和二年建立」であって、猿田彦神石の文字は阿蘇惟聡馨の筆によるものである。
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(八) |
元村社。後神饌弊帛共進指定村社。
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(九) |
宗教法人により昭和廿八年五月廿六日法人登記
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(十) |
平成二十二年 唐破風向拝及び回廊改修工事
平成三十年九月 熊本地震復旧工事 瑞垣・狛犬・記念碑修復
令和元年十一月 地震及び老朽化による修復終了 本殿銅板吹替
本殿大床造り替え・装飾金具等
令和元年十二月 御神体神衣新調奉納
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